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死とは

先日の安楽死と仏教というエントリーに
コメントをいただきました。

そこで「死をどのように捉えるか」という質問をいただいたのですが、
どうしても長くなってしまうので、エントリーで返事させていただきます。


僕の考えは「死には色々ある」ということです。
あまりにも一般論的で無責任な考えですが、
僕にはそうとしか言いようがありません。

それではさすがに答えにならないので、
もう少し僕の独断的想いを話させてもらうと、
死とはコミュニケーションの永遠の断絶だと思います。

僕が今後誰かとコミュニケーションをとることができる
可能性が全くなくなった時が僕本人にとっての僕の死で、
僕とコミュニケーションをとる可能性が
永遠に断たれた時が、僕を取り巻く者にとっての僕の死です。

僕もコメントでいただいた通り、
自分のことを誰も考えてくれなくなる時が本当の死だと思っていました。

でも、それはあくまで自分にとっての死であって、
死にはもっと多くの意味があると思うようになりました。
少なくとも逝く者本人にとっての死と、
遺された者にとっての死があると思います。

やはり僕たちが通常イメージする死に方で逝くのと、
そうでない場合とでは
遺された者に対するインパクトがまったく違います。

かつて身近な人が非業な死を遂げた時、そのことを強く思いました。

僕たちは誰もが理由がないと先には進めない。

死(というよりも死に方)に明確な理由を見出し納得してからでないと先に進めない。
時間がそこで止まってしまうのです。
例え傍目には先に進んで行っても、
いつでもその時点に戻されてしまうのです。

場合によっては死とは逝く本人にとってよりも
遺された者にとってより重くなってしまう。
死者の心をイメージできず、生き続ける遺された者の方へ
感情を同化させることしかできない僕はどうしてもそう思ってしいます。

人は死に方を選べない場合がある。
選べたとしても、それを受け入れられない者を遺してしまう場合もある。
だから逝く本人だけではなく、むしろ遺された者の
救いが、心の拠り所が、納得できる理由づけが必要なんではないか。

死には救いが必要で、必要な救いには
逝く本人にとっての救いと
遺されるものにとっての救いとがある。

同じことを何度も述べている気がしますが、
人は一人で生きているのではなく、誰かと関わり合って
生きている。というのはそういうことだと思います。

死は決して一人で完結するものではない。
生は決して一人で完結するものではない。

誰もが誰かと関わり合って生きている。
生きるということはコミュニケーションするということ。
だから死はコミュニケーションが永遠に断たれるということ
だと思います。

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